哲学者ソクラテスの言葉。
「人生のどこかに生きる価値があるとするならば,“美そのもの”(イデア)を観ることで,人生は生きるに値するものとなる」
ソクラテスは読み手に寄り添い一緒に真理を追及して,学びを与える学者です。
参照:プラトン著作『饗宴』
さて,「魂の出産」「愛の正体」とはいったい何か,哲学者ソクラテスと架空の人物との対話をみてみましょう。
「すべての人の腹に子どもがいる」
「愛の正体」について,ソクラテスが作った架空の人物ディオティマという女性が語ります。

美を求めることは善きものを求めること。
それは人間に幸福をもたらします。
愛の行為とは,精神の面でも肉体の面でも,美しいものの中で子どもを産むことです。
すべての人間は,身体の面でも魂の面でも,懐妊の状態にあるのです。
※懐妊:お腹に子がいること。
私たちの本性は,ある一定の年齢に達すると,出産への欲望をもちます。ところが,醜いものに囲まれて出産することはできません。
私たちは美しい対象を見たり近づいたりすると,自然と心が和やかになり,出産したいと思うのです。
では,何のために出産しようとするのか。出産とは,死すべき運命のものが不死を求めることです。
愛は善きものとともに不死であることを求めます。出産によってのみ,死すべき運命のものは不死にあずかるのです。
ディオティマは「愛とは子どもを産むことであり,不死を求めるために出産する」と語りました。
この「出産」は,(男性も含めた)すべての人間が,魂で身ごもっている懐妊の状態にあるということです。
さらに,相手と話すことや,行動によって,何かを生み出すことを表します。
「愛」とは美のなかで出産すること
ディオティマによると,人間は「不死を求めるために出産する」と言いました。
有限な存在の人間ですが,子を産むことで不死に近づこうとします。
産み出すことによって,その存在であり続け,”生きる”ことに繋がり,出産を求めるのです。
人間は妊娠すると,肉体と魂,どちらも懐妊の状態になるのです。
さらに,魂における出産は肉体における出産より,はるかにすぐれているとされます。
【魂の出産】
続けてディオティマが語ります。

魂において,懐妊している人々が,世の中には存在しています。
たとえば,自らの作品を作るすべての詩人たち,様々な発明をする職人たち,国を治める徳を持つ人たちなど,魂が懐妊している人は美しく気高い魂を持つ人との出会いを喜びます。
その人のそばにいても,離れていても,その人のことを記憶にとどめながら,はらんでいた知恵を産みつけ出産するのです。
魂から生まれるのは,現実の子どもよりさらに美しく,不滅の命を持つ「知恵の子」です。
たくさんの場所で多くの人が,美しい仕事を世に表し,数々の徳を世に送っています。
こういう人々には,その魂の子どもゆえに,たくさんの伝統が作られてきたのです。
ディオティマは魂が懐妊している人を例に挙げました。
魂が懐妊している人の例
- 芸術家(クリエイティブを生み出す)
- 技術者(新しいことを生み出す)
- 立法家(国の制度や法律を作る)
- 教育者(人を育てる)
など。
こういう人たちは,ただ役割としてやっているのではなく,何か産みたいものを持っていて,できるだけ素晴らしいものを残したいと思っているのです。
「出産」の例え
ディオティマはあえて「出産」に例えて説明しています。
女性の「出産」そのものが, “生きる” という作業の代表的な形とみなされるのです。
出産の条件
- 美しいと思う相手との出会いがあること
- 期が熟さないと生まれない

出産するには,まず「相手と出会うこと」が必要です。
それも誰でもいいものではなくて,自分が美しいと思う相手との出会いがあると子どもができるのです。
プラトンが書き残した著作『饗宴』も,プラトンが高潔な人物との出会い(ソクラテス)によって,プラトン自身の魂の懐妊とした作品といえるのです。
愛(美しさ)の段階

魂の出産には「美しい相手と出会う」必要があります。
美しさには身体だけでなく,精神面,知識も含まれ,それぞれには段階があります。
1.「肉体の美」への愛
1つ目は「肉体の美」への愛です。
「ひとつの肉体の美しさを知った後に,(他の)すべての肉体の美しさも同じように知ること」です。

ひとつの肉体に執着するのではなく,全ての肉体を愛する人になりなさい。
たとえば,「この人しか美しい人はいないのだ」というのは妄想か嘘となるでしょう。
たった一人の人を美しいと評価するなら,他の人の美しさも比較対象として,知る必要があるのです。
2.「魂の美」への愛
2つ目は「魂の美しさ」に目を向けることです。
たとえ,肉体が美しくなくても,精神の美しいものを愛するということです。

その人の社会の営みや,習慣の美に目を向けるのです。
3.「知識の美」への愛
3つ目は「知識の美」への愛です。
さまざまな知識の美しさを愛するということです。

人は,立派な言葉や思想を生み出すことを求めます。
「知識への愛」は,英語で「Philosophy(和訳:哲学)」となりますね。
4.「美」そのものへの愛
最後は「美」そのものへの愛です。
これまでの段階は,あくまで ”美に近い” ものを追い求めていました。つまり,不完全なものです。
この最後の段階でいう「美」とは,完全で永遠に「美」であるものを指しています。
これをプラトンは「美のイデア」と呼びました。
【イデア】とは?
完全な美を「美のイデア」とプラトンは呼びました。
イデア / idea
(アイデア / idea の語源ともされます)
イデアとは,『そのもの自体の本質のこと』を指します。
日本語の「理想」という言葉は,明治時代に「イデア」の訳語として作られたものです。もし,外来語であるイデアをそのまま日本で使う風習であれば,世間では「理想を求めて生きる」ではなく,「イデアを目指して進む」が身近な言葉となって,日常に浸透していたと考えられるのです。

美しいものには「美のイデア」が宿っているから感動したりするのです。
しかし,日常にある自然,肉体,社会,芸術などにおいて,美しいと思えるものは「美のイデア」が宿っている1つの姿にしかすぎません。
私たち人間は,すでに美のイデアを知っていて,美しいと思う,そう見えるものや人を通じて,「美のイデアに出会おうとしている」とされるのです。
「幸せのイデア」があるとします。
たとえば,幸せのイデアは「長生きすることではないか?」と考えれますが,「長生きが完璧な幸せとは言えない」とも考えられます。
ここで,「では完璧な幸せとは何だろう?」と考えたとき,その答えとなるのが,幸せの真理である『幸せのイデア』によってもたらされるものだといえます。
「美そのもの,美のイデア」を観る

人生のどこかに生きる価値があるとするならば,美そのものを観ることで,人生は生きるに値するものとなりましょう。
美のイデアを観たとするなら,黄金や宝石,美人を観たとしても比べものにならないでしょう。
もし「美」そのものを観ることができたら,その場合にのみ,徳の影ではない真実の徳を生み出すことが起こりうるのです。
そして,その人は神に近づき 不死となることが許されるのです。
愛は,人間が「美」そのものへと近づく最大の援助者であり,人間が愛の修行に励むことは望ましいとしたのです。
おわりに
人間は限られた人生の中で生きており,ときに自分のことだけでがんじがらめになってしまいがちです。
ところが,イデアの発想があると垣根を超えて,自分が生きる前の時代と死んだ後の時代まで含めて「自分の人生とは何だろうか」と考えられるようになります。
そうしたイデアの視点をもつと,今やっていることから,ちょっと自由になれるのです。
「長寿であることや短命であることは,どちらも大きな問題ではない」と,イデアはそうした視点を与えてくれるのです。

もし「美」そのものを観ることができたら,その場合にのみ,徳の影ではない真実の徳を生み出すことが起こりうるのです。
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