(原作:梅村真也、構成:フクイタクミ、作画:アジチカ)
多くの人へ影響を与えている人気コミック「終末のワルキューレ」。
2021年にはアニメ化が決定され、ますます注目が集まる作品です。
その内容を見ると、多神教の世界観で描かれていますが、作中に描かれる「アダム」は聖書に登場する人物。

一神教である聖書と多神教は、世界観が異なりますね。
独特の世界観を繰り広げる魅力的な作品ですが、作中に登場するアダムが聖書に忠実に描かれているか気になるところ。
そこで、「終末のワルキューレ」とキリスト教(聖書)の比較ポイントをまとめてみました。
それでは、キリスト教視点でストーリーを追っていきましょう!
「終末のワルキューレ」とは?

「終末のワルキューレ」とは、「人類VS神々」の闘いを描いたバトルコミックです。連載開始から話題となり、発売直後から品薄が続くほどの人気作品。
(累計発行部数は500万部を突破、2021年にはテレビアニメ化が決定)
【キリスト教と比較】終末のワルキューレ(物語の背景)

あるとき、神々による会議が開かれ、ひとつの提案が挙げられる。
それは人類と神々が1:1形式で闘い、存亡を賭ける試合を行うというものであった——。
試合の原因はノアの洪水?
コミック「終末のワルキューレ」では設定として、人類は一度ノアの洪水の件があったことを踏まえて、「神は別の方法(試合)で人類に終末を与える」という描写がなされています。
聖書には、「神はノアの洪水を二度と起こさないと約束された」とあります。(参照:創世記9:12-16)

「神は再び大洪水を起こさない方」という描写は、じつは神性を表しているのですね。
(神性=神の性質)

つまりこのシーンは、キリスト教的(聖書的)に描かれていることになりますね。
「人類vs神々」開始(アダムは二回戦から)

(引用:youtube.com)
さて、「人類VS神々」による試合が始まることになりました。神々に対して圧倒的に不利な人類ですが、どうやら秘策があるようです。
そして開幕の一回戦は、戦国武将「呂布」VS雷神「トール」。どちらもパワータイプのキャラクターとしてぶつかり合いました。

» 終末のワルキューレ(1巻)
(※本記事では「聖書的に描かれているか」に着目するため、気になる試合結果はコミックをご参照ください><)
(サンプルは「物語序盤〜神々が終末を与える理由」まで)
それでは二回戦、原初の人類「アダム」VSギリシャ神話より神々の王「ゼウス」の試合を見ていきましょう。
【キリスト教と比較】「終末のワルキューレ」登場するアダム

二回戦は、全人類の父「アダム」VSギリシャ神話より神々の王「ゼウス」。
「終末のワルキューレ」においても屈指の名試合です。

はたして、原初の人類「アダム」がどのように描かれているのか、聖書と照らし合わせて見ていきましょう!
【キリスト教と比較】「終末のワルキューレ」人類側よりアダム登場…!

(参照:終末のワルキューレ3巻©アジチカ・梅村真也・フクイタクミ)
禁断の果実としてリンゴを手に持ち登場した「アダム」。
禁断の果実をリンゴとして描かれる作品はよく見られますよね。
しかし聖書には、善悪の知識の実がリンゴだとは記されていません。いったいどのようなものだったか、実際のところは不明とされています。

人気漫画の「DEATH NOTE」やApple社のマークにもリンゴが描かれていますよね。
【キリスト教と比較】「終末のワルキューレ」開幕するアダムVSゼウス(バトルシーン)

登場したアダムに対して、圧倒的な体躯のゼウス。

バトルマンガとして描かれる「終末のワルキューレには、特殊な能力を持つキャラクターが次々と登場します。

それでは、アダムの能力を見ていきましょう!
【キリスト教と比較】「終末のワルキューレ」アダムの能力
バトルコミック「終末のワルキューレ」で描かれるアダムの能力は「神虚視」というもの。

「神は御自分にかたどって人を創造された」
(創世記1:27)
と聖書にあることから、「神の形にかたどられたアダムは神が繰り出す技をコピーできる」といった能力として、作中に描かれています。
「神は御自分にかたどって人を創造された」
と、旧約聖書の創世記1章27節にあります。

「アダムの能力」、上手く参照されていますね。

ここは聖書通りなので、初見だと初耳学ですよ。
【キリスト教視点で見る】アダムの回想

(参照:終末のワルキューレ3巻©アジチカ・梅村真也・フクイタクミ)
試合の最中、ここからアダムの回想シーンへ入ります。
「終末のワルキューレ」では、旧約聖書「創世記」における楽園での出来事がコミックオリジナルで描かれています。
(筆者としては聖書と比較し放題のまさにパラダイス…!)
(と、洒落はさておき)
ここでは聖書と比較するポイントを3つに絞りました。
「終末のワルキューレ」と「聖書」を比較
- アダムは神を憎んでいたの?
- イヴは濡れ衣を着せられたの?
- アダムが禁断の果実を口にしたキッカケは?
結論、これらはすべて聖書とは異なり、「コミックオリジナルの内容」で描かれています。
アダムは神を憎んでいる? | 憎んでいる | 憎んでいない |
イヴと禁断の果実の件 | 蛇から濡れ衣を着させられた(口にしていない) | 蛇に誘惑されて禁断の果実を口にした |
アダムが禁断の果実を口にしたキッカケ | 楽園追放が決まったイヴのそばにいたいから食べる | 蛇に誘惑されたイヴが手に持つ禁断の果実を渡されて食べる |

パッと表にしてみました。

それぞれポイントを見ていきましょう!
アダムは神を憎んでいる?
コミック「終末のワルキューレ」では、アダムの強さの理由が「神々への憎しみ」と描かれています。
しかし聖書には、アダムが神に対して憎しみを抱いている記述はありません。
つまり、コミックオリジナルの描写ですね。
イヴは濡れ衣を着せられたの?
コミック「終末のワルキューレ」では、「禁断の果実を口にした蛇がイヴに濡れ衣を着せた」とあります。
一方で聖書には、蛇の誘惑によってイヴが善悪の知識の実を口にしています。
こちらもコミックオリジナルの描写ですね。
参照:旧約聖書「創世記」3章6節

イヴは「終末のワルキューレ」において、禁断の果実を口にしていないように描かれていますが、聖書では禁断の果実を口にしていますね。

どちらも「蛇絡み」ですね。
アダムが禁断の果実を口にしたキッカケは?
アダムが禁断の果実を口にしたキッカケをコミック「終末のワルキューレ」では、次のように描写されています。
「アダムは、蛇に濡れ衣を着せられて楽園追放となったイヴのそばにいられるように、自ら禁断の果実を口にして、自身も楽園から追放されることを選んだ」
- 聖書
→アダムは蛇に誘惑されたイヴから渡された禁断の果実を口にした - 終末のワルキューレ
→アダムは楽園追放となったイヴと共にいるために禁断の果実を口にした
参照:旧約聖書「創世記」3章6節

ここは聖書と異なるシーンですね。

「終末のワルキューレ」では、なんだかロマンチック…。
さて、キリスト本編では、アダムの回想シーンが終わると、再びアダムvsゼウスが始まります。
【キリスト教視点で見る】立ち上がるゼウス、問われるアダム
倒れていたゼウスは起き上がり、アダムに一つの疑問を問いかけました。
「おぬしの目には神々への憎しみを感じられぬ。本当のところ、なぜ神々との闘いに出てきた?」
ゼウスの問いかけにアダムが答えます。

(参照:終末のワルキューレ©アジチカ・梅村真也・フクイタクミ)
コミック「終末のワルキューレ」で語られる、全人類の父アダムの言葉。
「子供たちを守るのに理由なんているのかい」
あまりにも巨大な慈愛に、人類は静かに打ち震え、思い思いの方法でアダムの勝利を祈りはじめました。
そこには性別も人種も民族もなく、政治家も犯罪者も、富者も貧者も悪人も善人も関係なく、人類がひとつになる姿が描かれていました——。
(参照:終末のワルキューレ©アジチカ・梅村真也・フクイタクミ)
聖書の人物によって平和がなされる描写は、感慨深いものがありますね。

(ぐすん…。)
(おわりに)【キリスト教と比較】「終末のワルキューレ」アダムvsゼウス

コミック「終末のワルキューレ」はオリジナルの世界観で描かれていますが、聖書を正しく参照されているシーンもありました。

迷える羊
いやあ、神性が描かれていると神様を思い返すキッカケになりますね。

迷える羊
迷える羊としては助かりますよ。
今回紹介した「終末のワルキューレ」は1〜3巻までを参照しました。
アニメ化も決まり、これからますます期待が高まる「終末のワルキューレ」。
気になる結果や物語を序盤から楽しみたい方は、この機会にぜひ読んでみてくださいね。